9/30   クローゼットの中のバレエ

 雨降りのベランダ観察。メダカがいつの間にかまた卵から孵ったようで4匹ほど増えている。これで卵から7匹産まれて、はやくも貰ってきた時の倍。でも大きいのは2匹減ったので、さて全部で何匹でしょう。稚魚は一度に全員が水面に浮いてきてとまっててくれないと数えられないので、かろうじて目視できた数という感じです。目玉をつけた卵はまだたくさんあるので、この分だとまだ増えるかもしれません。10匹越えたらペットボトルを大きいのにしてあげましょうかね。
 もさもさと芽を出した双葉たちは、このところの雨と寒さでもやしっ子。根ぐされしたり倒れてしまう前に、あやういやつはスプラウトとして食べてしまいます。 日当たりの良い玄関側の双葉たちは色も良く大きくなってきました。じゃが芋も芋であることを忘れたみたいに今は葉っぱとして成長しています。ピーマン(パプリカ?)もじゃが芋も自分のところで花を見るのは久しぶり。楽しみです。
 今日の午後はレッスンが休みなので、日がな家仕事。1つラフを描いてからクローゼットの衣替えをしてしまおうかな。麦わら帽子もそろそろニット帽と入れ替えです。それが終わったらバレエの練習をして針仕事のつづき。バレエは踊りじゃなくてドビュッシーの曲。弾くのは20年ぶりだ。こういう数字が自分から出てくるなんてびっくりする。ほんとに忘れてるだけで、色んなものが自分の中に仕舞ってあるもんだ。収納量が一番多いのはここだね。


9/29 行ってきたよ

 どこへって訊くのは野暮ってもんです。言っちゃいますし。草場ですよ。とにかく久しぶりすぎて、行こう、と決めた途端にテンションのコントロールの仕方がわからなくなって、洗濯物を干しながらわくわくしてみたり、いや、舞い上がっちゃいかん、と思ったり。ともあれ、草場用品(はさみ、ビニール、虫除け)をバッグに入れたらレッツゴー。最近音がうるさいプッチ号をわしゃわしゃ漕いでいざ草場。


じゃーん。あっさり着いているようですが、結構距離があるので、じわじわと汗が。
まだまだ夏草のなごりで盛っています。草の少ないところからIN。あまり楽しい草は生えてないなあ・・・と思ったら



!!


!!!


ひ・・


のー!

あっという間に片手いっぱい。大猟だ。例年より量が多くて、粒も大きい気がします。まあ毎度ながら、もっと早くに拾っている人が居るのは間違いないのですが、拾う先拾う先に、ひとつ またひとつ、と落ちていて、時々木の上からもポスンと落ちてくるので、こりゃまさしく天からの恵とばかりに栗拾いに夢中です。あまりに落ちているので、これはもしかして誰か(何か)の手引きか?どこかへ誘導されているんじゃないの?と思うほど。両手いっぱい山盛りになったところでおしまい。なにせ、写真ではわからないけれど、蚊がすごいの。ラベンダーオイルをスプレーして行ったので、たいして刺されはしなかったけれど、取り巻きの数といったらない。雨上がりだし、栗の木の下は日陰だし。


蚊から逃れて草場B。こちらは背丈の低いさわさわとした草。草っぱらという感じ。たのもしい草は、こっちもあまりありません。今はそういう時期なんでしょう。一度刈られるか枯れるかすると、いいやつが出てくる気配があります。待ちますとも。
草の中で咲いているのは、白と赤の彼岸花。白い彼岸花は草場では初めてです。


秋ですから、木の実もあちこちに。


たぶんカリン。去年実がついたところを発見して、初めて気づいた。草場には1本細い木があるだけだけど、近隣には街路樹としてカリンがたくさん植わっています。ちょうど今、こんなふうにボコボコと実が大きくなっていて結構面白い。1つがテニスボールくらいで、1本に数十個とかぼかんぼかん生ってるのです。落ちてきたら痛いと思うね。熟してきた頃うまくキャッチしてカリン酒を漬けたいなあ。


これも食べられるやつだったと思うけど、なんだっけっかなー。ヤマボウシかな。残念ながら手がとどかないので味見は断念。

今回の訪問での新しい発見はニラ。ニラは花が咲けば分かるけどね。咲いて無いと訝しんでしまって摘むに至らないことの方が多い。種ができたらもらってきてベランダに蒔こう。
せっかく草場まで来たので、もう少し先の農園の直売所まで野菜を買いに走る。さらにもう少し足をのばして近くの公園で休憩。公園にある小さい動物園をさらっと眺めて今日のお散歩終了。


まったりしてる鹿。無料のわりには体の大きい動物とか珍しいのとかいて楽しいのだ。


こちらもボーっと気味。ハーなんとか、って名前だったような・・・。限りなく象に近い動物って書いてあった。ほんとだよ。見た目が、じゃなくてね。なにかが。こころとかさ。

長い帰り道、若干眠たくなりながらプッチ号をだらだら走らせていたら、信号待ちでキュっと止まったスポーツカーの黒人男性がカッコよくて目が覚める。今の今まで外国の方いや、日本人でも、あまり顔でハっとすることって無かったんだけど、なんでしょうか。風邪が治って元気になっちゃってるんでしょうか。この辺はアーミーの方が多いので、似たような感じの人は見慣れてるはずなんですけどね。もしや黒人もいけるってことか?自分。こりゃ新発見だ。まあまあ、それはそれとして、いつどこで何をきっかけに新しい世界に入り込むことになるかなんて、ほんとにわからないんだろうなあ。
でもとりあえず今晩は栗ご飯だ。



9/28 虫かくれて戸をふさぐ

 ジャバジャバと本降り。今日の雨は包まれた昨日の雨から変わって、閉ざされたという感じ。子供の頃は台風や大雨の時に家中の雨戸が閉められ、昼間なのに部屋の電気をつけて過ごすという状況が、特別感があって好きでした。孤立した空間に家族が集っていつもよりも何か同じものを共有しているというか、さらに密になる感じ。さあ何をしようか何を食べようかとみんなでいちいち考えたり。 雨だから、と行動の選択肢が減るってのもたまにはいいもんだ、と思うのは自分が気楽な暮らしをしているからかもしれないけれど、家での仕事は油断すると家事やら雑用やら目移りすることが多すぎていけません。洗濯ひとつ無いだけでもかなりのショートカット。
昨日の一日と今日の一日はさして変わりないように見えるかもしれないけど、昨日よりちょっとだけ孤独感がうまれるのは二日目の雨のせい。でもなんていうか晴れの日の空しい広がっていってしまう孤独感じゃなくて、ぎゅっとなにかを握りしめるようなそういう感じ。今日は虫もかくれて戸をふさぐ日。押し黙って手元から紡ぐよ。


9/27 残心

 しとしとと雨。肌寒くていつまでも眠い。布団の中で雨の音をききながら、ああもうメダカの水が溢れているかも...と思うもふたたび眠る。起きてベランダを覗いたらうまい具合にアボカドの葉が甕の上に広がっていて、とくに変わった様子は無し。メダカがその辺にピチピチしてなくてよかったです。
 昨日は朝からの出張レッスンのあと、友達を招いて昼ごはん。時間がぎゅっとつまった日だった。友とは私が以前の職場を辞めてから同じようだけど違う道を歩き始めた と思っていたけれど、つかず離れず抱いている夢の景色は同じで、距離をおいた分だけさらにフィットしてきたような気もする。そして私はやっぱり音楽(仕事としての)を捨てきれず、他の兼合いと悩んでも未練のようになっても、どこかで音楽に関わっていたいんだなあとつくづく思った。だから今の自分の音楽への姿勢ってかなり怠慢だと思うけど、相手(職場や人)に捨てられるまで続けようと決めたのだ。なんかえらそうだけどね。練習します。ほんとにちゃんと。
でもそことここをひっくるめて分かってくれる友が居ることが、また日々の支えになるわけです。点も集れば面。あちこちにさまざまに支えてくれる人が居て今の自分が成立ってる。出会ってすぐに意気投合した話が出来る人も居れば、昨日の友のようにじっくり10数年かけたあとに夢を語り合うこともある。10年前だったらどっちも出来なかっただろうな。
まあそんな昨日の残心(身)の朝。
しかーし台所には楽しい時間の残心ならぬ残骸が・・・。


 「残心」てのは、弓道では矢を射ったあとにしばし目線と身体(腕)の形を残すことをいいます。パン!と矢が的にあたった時の音はなんとも気持ちが好いものでした。残心はけして作為的に作ることはできないし、物事なんでもそのちょっとした時間てのが結構次の事柄に移る為には大事なことかもしれませんねえ。結果を見た後の残心まででひとつの起こりであるわけです。でも残心ひっぱって余計なことが頭が回る前に、我は台所へ行くことにしましょうか。
「残心」のあとは体勢を戻して「足踏み」という一番初めの動作に戻ります。物事といっしょですね。比較的slowで優雅ですけど。弓道やってたときはこんなこと考えたことも無かったですけどね。そんなもんすね。


9/25 それは時間の伝達ツールでもあって

 日が射してきた。肌寒いけど気持ちの好い光。水温が下がったせいか、甕を覗きこんでもエサをあげてもメダカたちはじっとしたまま。時折風がつよくふいて、建物のどこか隙間がカラカラガラガラと響くような音が、建物全体をおおって鳴る。いったいどこが鳴っているのか、いつも不思議。トタンのミルフィーユみたいな屋根や雨戸の戸袋があるわけでもないのに。嵐の時なんかは、それこそティンパニー楽団が叩き散らしているようなそんな感じさえします。ごく一般的な集合住宅なんですけれどね。 一見隙間なく固体のように見えるこの建物にも、風の通り道がたくさんあるのかも。不思議は不思議だけど風が通ることにも音にもそんなに悪い気はしません。雨の音、陽を受けて壁や天井が軋む音、遠くを走る電車の音、ガスボンベを転がす音、夕方の郵便屋さんのバイク、深夜の新聞屋さんのバイク。自分が動かなければほとんどなんの音もしない部屋の中ですから、外の気配が伝わってくる感じは好きです。隣人のお喋りやくしゃみも時々は。



 土に充分な水分が戻って、緑がまた元気になってきた。大葉は穂じその季節。穂を天ぷらにするのを毎年楽しみにしてる。もう少しだなあ。花が終わったら大葉はおしまい。葉は摘んでしまってしょうゆ漬けにして、種取り用の株だけ残してあとは引っこ抜きます。大葉の脇でぐんぐん大きくなってきたのは、たぶんパプリカかピーマンのたぐい。食べた時の種を試しに蒔いておいたやつ。涼しくなってきちゃったからうまく実まで育つか分からないけど蕾がついてきました。夏場も虫がまったくつかなかったのがすごい。そしてその根元にはこないだ種袋ごと落として、過剰に種をばら蒔いた空芯菜の双葉。お隣には先日埋めたじゃが芋が元気に葉っぱを伸ばし始めました。これがひとつのプランター内の出来事ですから、なかなか賑やかなこと。適当にいっぱい生えてるとこいつはまだ芽が出ないとかもう枯れたとか、勝手に期待したりがっかりしなくていいから私には合ってるみたい。何でもは育たないけど、ここに合ったやつがちゃんと時期を選んで出てくる。でもねー今菜っ葉がめっぽう高いから、早く食べれる大きさになってくれるといいんだけど。



9/24 足をひたすように さぐり歩き

 曇りときどき静かな雨。ぐんと冷え込む。朝方薄い布団からはみ出た体がふるえた。天気のよい時に毛布を干しておいてよかったな。
朝起きて馬鹿の一つ覚えみたいにユーカリのアロマを焚く。咳はとまったけれど、鼻が頑固であまりきかなくて、ついついオイルを多めにたらして真上で吸ってみたり。でも昨日は帰ってきて玄関をあけたら一瞬いい匂いがしたから、ちゃんと香っているんだな。
今朝は少し薄暗くて寒くてろうそくの炎なんかがチラチラするから、朝から一年ぶりくらいにJoe Passを聴いたりして、ちょっとなにか酔ってるようです。何にって秋に。というか晩秋、いやどちらかというと初冬を思い出しながら。今くらいの時期になると、今年もあと数ヶ月一年なんてあっという間だ、と思うことも多いけれど、新しい季節の到来に足をひたしたような日はいつもやっぱり新鮮で、振り返りよりもこれからのことを想像してわくわくすることの方が多いみたい。あーはやくサンマ食べないとーとか、鍋ーとか。てっとり早いのは食べ物関係ですけど、そうじゃないこともふわふわっと。そう思うと、今日なんかが急に寒くなっちゃったからあれですけど、焦るなまだ9月だ大丈夫って思う。思いついたことをひとつひとつちゃんとやってこう。サンマも鍋も。


ぶにちゃんに編んでもらった毛糸のくつしたを早速はきました。やさしいの。このくつしたは。

こういうものを持ったり身につけたりすると、独りだとか言って強がったりいきがったりしてんなよ、って過去の自分に言ってあげたくなるけど、すべて時を経てわかるもんなんだねえ。過去の自分にはこのやさしさもわからなかったかもしれないし。
こう見ると足ってなんかおもしろい。動物だな。しかも右足むくんでるっぽいね。しかしむくんだ足にもこのくつしたは可愛いのさ〜。ふふん。ま、今日は足先っちょも隠してあげますか。



9/23 声帯休眠

 秋分の日。雨脚が強まる前にメダカを部屋の中へ避難。雨が入って水がじゃんじゃんあふれてもメダカは外で出てしまうことは無いと聞いたけれど、やはり心配で甕と小さい赤ちゃんメダカの容器と。雷がゴロゴロ鳴り始めたので、これも急いで書いてしまわないと。
 風邪は"ひどくなったら明日の仕事どうしようどうしよう、なんだか熱もあがってる気がするし咳はひどいし"とか思っていたら、ほんとにひどくなってる気がしたので、昨日の午後から"あれ、もうだいぶ治ってきたみたい""治ったんだ"と思うことにしたら、今度は楽になった気がするから不思議。何かで「完了形にして思ったほうがいい」というようなことを読んだので。 思い込みが激しいというか、素直なのですよ。B型だから。面倒くさいから。ふうん、そうかって具合。そのかわりピンとこないことには、全く頭に残らないというか素通りです。B型は関係ないかもしれないけど。自己暗示というか自分の説得に納得しやすいみたいです。自分好きってことかな。まあそうでしょう。
 で、風邪が本当に好くなっているのかはわかりませんが、これから歌の伴奏の練習をしてプレ演奏会に行ってきます。声は出るだろうか。数日間、誰ともまともに喋ってないのでどうなんだか。セールス電話に出た時は、かすれたおっさん声でした。とにかく演奏中とかに突発的に咳き込むのが一番こわいので、マスクをして声が出ない人という設定でいよう。
ずいぶんと日が短くなっちゃって、という感じだけど、今日で昼と夜がだいたい同じ長さ。今日もまたひとつの節目です。暑さ寒さも彼岸まで とは誠によくいったものですね。



9/22 お月見を

 昨晩、まんまるで神々しく光るお月さんを眺めながら、こんなのを見せてもらったんじゃあ明日はお月見をせにゃいかん。よもぎを採りにいかねば!(私的に毎年、お月見=草団子を作って食べる日となっております) と、そんなことを思いつつ寝たわけですが、まあ起きてみれば相変わらずどよんとした体調で、風邪っぴき一丁な具合。がしかし、なんとか草場まで行かずにどこかでヨモギが摘めないものか考え中。季節的に若い葉はなかなか無いから、草場みたいに定期的に草を刈っているようなところでないと難しいんだよねえ。草場かあ。今日のあたしには遠いなあ。


引き続きアロマ中。香炉なんぞ無いので(全然使わないし気にいらない模様付きだったので 半年くらい前に捨ててしまったのであった)家にある物で代用。ちょっと直火気味だけど、火を小さめにしとけば充分いい具合。アロマを焚くなんて素敵な暮らしをする人みたいじゃ。

9/21 結局それも欲

 晴れときどき曇り。部屋に入り込む影の濃さがくっきりしたり淡くなったり。ふと気づけば入り込む長さも変わっている。
 アロマオイルが抗菌にもなるとの友達の日記を読んで、昨日はバスに乗って駅前までユーカリとラベンダーの精油を買いに行って来た。最近バスに乗って出かけるってのが、ちょっと気に入っている。もちろん自転車のほうが自由だし意のままなのだけど、それに慣れすぎて、乗り物に乗ることがすごく面倒というかひと手間に感じるわけで、そうなってしまうのもいかんなあと思って。少し周りの状況をも楽しめるって言うか、手間を手間だと思わずに出かけられると、どこに居てもきっとそう不便を感じないだろうし、バスに乗って(自分以外の時間に合わせて)駅まで出たりするような余裕も必要かなあと。自転車でかっとばせば駅まで7分頼れるのは自分の足だけ、っていうのももちろん必要。でもまあ駅まではそう遠くは無いので、元気なら歩くのが一番だけど、バス停もすぐそこだし、バスに乗ると普段の ちょっとそこまで も、
お出掛けになる感じで。たまにね。
 帰ってきて早速ユーカリオイルをあけて、の前に、オイルを焚くならその前にちょっと部屋を片付けよう、と掃除。小奇麗になったところで焚く。そしたらもっとなんだかすっきりさせたくなって、クローゼットやら食器棚やらなにか処分するものは無いかなあと物色。物はたびたび減らしているので、特に捨てる物は無い。それじゃあともてあました気持ちを、夏前から溜めこんであったレシートや領収書、支払書の山のへ。どーんと積んで、傍らにゴミ箱も用意して収支計算。鼻水もとまって、のどの調子も良いみたいだなあと、レシート一枚一枚からデスク周りの紙物を全部チェックしおえればすっきりー。ユーカリ効果なんだろうか。ベランダのレモンユーカリももっと大事に育ててみようかなあ。年々香りを出さずになって、ベランダの茂みになろうとしているっぽい。
 "物を減らしたい"と、最近というかここ一年くらいずっと思っているけれど、減らしたいっという願望は同時に、私の場合もっと何かを受け入れたいという願望の裏返しであるみたい。そういう気持ちが高まっている時に、許容範囲をつくるようなそんな行為になってるんじゃないかなあ。でも形あるモノはもう本当にたくさんはいらなくて、形無いモノに価値を見出そうとしたがってることが増えている。形あるモノでも、ブツ(形)だけに終わらずそこに心があるモノ。若かった頃より、形無いものが支えになってきてることは確かだ。ふむふむ。
とか、納得してたら夜中にひどく咳き込んで、今日はまたノドが痛ーい。ブツよりモノよりまずは健康第一。



9/20 草場の山栗のようすが気になるんだけど

 白い空。静かな日曜。ふと気づけば鳥の声もせず。雨がくるのかな。いつもより数時間早く起きたので、いつもより早くメダカにエサをあげたら、いつもは争うようにして食らいつくのに無反応。甕の底のほうでじっとまだ夢うつつの様子。早くも飼い主に似たんでしょうか。なんだつまんない、と自分もそのままゴロっと横になって二度寝。ベランダからの風が心地好くて座椅子を枕にまたもや少々寝坊です。まあ日曜日ですから、っと思ったら月曜日じゃん・・・。冒頭から間違えているし。
 風邪は相変わらずの微熱つづきで良くも悪くも。咳っぽいのはおさまりつつ鼻へ変わってきました。喉も鼻も粘膜系は普段から弱いのですが、どうも鼻に関わってくると駄目です。喉や体が自己治癒しようと頑張っているんだ、と思ってもなかなかね。喉の奥のうがい、というのがあるらしく、夜に塩湯でチャレンジしてみましたが、ちょいちょい飲んじゃってうまくいきません。うまくいくと普通のうがいでは出てこないような、色々なホコリとか糸っぽいものが出るらしいので、一度ごっそりというかさっぱりしてみたんだけど。木曜のプレ演奏会では、自分も歌伴しながら歌リハをするので声はもどってほしいのです。なにせ低音が響きすぎ。低音のみが。今日は緑茶に塩でチャレンジしてみよう。



9/19 微熱をおびた正午の思考

 ここ数日、どうも喉が痛いなあと思っていたらやっぱり風邪のようです。顔が暑いのでいそいそと熱を計ってみたらまあ普段より多少高いかなという程度。体はまだそれほどどうってことないみたいだし、風邪をひくことが久しぶりすぎて、こういう時ってどうすればいいのか完全に忘れてしまっています。無茶しなければいいんだっけ? それでもデジタルの体温計なのに、計り終わったあとブンブン振ってデジタル窓を「?」と思いながら眺めるあたり、ちょっとおかしな菌におかされてるのかもしれません。しかし本当にあまりにも(たぶん1、2年の間)風邪というものをひかなかったので、もしスカっと短時間で治るのならば、どうせお篭り予定の連休だし、ガっと熱が出てくれて溜まった毒素を出してしまいたい気もします。どうも夏の暑さ疲れとかで体の中がよどんでる感じ。
 というわけで今日はおとなしく様子見。地味に座り作業。腰には悪いけど、作業的にノってきてるところなので気分的には"してやったり"というところ。夜は半身浴しよう。
 小さいけれど楽しみなことがいくつか見えてきたり、やってみようかなって思うこともいくつかあって、今はかなりローペースでの生活だけど、もしかしたら一旦レールに足をかけたら、またしばらく思いもよらない季節までびゅんびゅん行ってしまうのかもしれない、とも思う。
どちらがいいのか、そもそもそうなるのかだってやっぱわからないよ。でもそういう選択肢をつくり出せたってことだ。で、わからないってことがそれほど苦痛だったり不安につながらないってことは、少なくともちょっと何かわかったってことだ。それが言葉ではっきりあらわせないことは変わらなくても。



9/18 うまれました

 ついに自分自身の玉が、といいたいところですが、またしてもメダカの話です。透明で、短い私のまつげくらいのサイズのが1匹。今は150mlくらいのペットボトル容器で充分ですが、次々うまれるようならば新しい入れ物を考えなくてはいけません。これで今まで以上にベランダでじっとする時間が長くなりそうです。しかし風が気持ち好いし、めだかから植物まで存分に眺められる時間はかなりの贅沢タイム。癒しというには大げさだけど、ささやかで大きな和みです。まあ広く素敵に飾ったベランダなわけでもなく、ほんと猫の額程度のところに好き放題伸び放題もんですが、営みは随所で展開中。それが自分に合ってるんですね。 さあさあすこし遅いけれど今日をはじめよう。今週はあちらこちら友達のうちで美味しい物を食べたり喋ったり、人と過ごせる時間も多かったので、しばらくは手を動かすことにするつもり。なんだか私って、人に喋っていることはわりと全部自分に言い聞かせたいことだったんだなあ、言って自分が納得したいんだなあっと、今週のことを思い出しながら今ふっと気づいた。いや、なんとなく気づいていたんだろうけれどね。


あちこちで発芽ラッシュ。あまり見かけないタイプの双葉。
これたぶんフランスの種だわ。




9/16 観察中

 今日もしっぽり。陽もささず部屋の中がミシリとも言わないので寝坊しました。相変わらず起きてすぐはベランダを開けてぼうっとメダカを眺めています。卵を産んだメダカはその後も少しずつ産み続けていて、今日もお腹に玉をつけて泳いでいました。産む分お腹が減るのか餌の争奪がすごいです。 こうやって外界から甕を眺めているつもりなのに、いつのまにか自分の方が水の中に居るようにひっそり、のぞきこみながらメダカの呼吸になっているような気がします。卵は一番最初の数粒が別の容器に隔離できて、こちらもじいっと観察してみると、透明な玉の中に目のような2つの点々ができてきました。孵化するといいなあ。
 昨日は雨の前に種まき。もらったのや春に採れた種や手持ちの秋蒔き葉物を中心にとりあえずあちこちへ。シャベルでプランターの土をざくざくほぐしていたら、突然なにか大きめのモノにガっと当たって、モウレツ動揺。なんなんだ?とそうっと掘ってみたら、いつか埋めたじゃが芋でした。(芽がいっぱい出ちゃったから、食べずに適当に埋めた)脅かさないでよ、と 
どれどれと掘って出してみれば、水分抜けてしぼんでいたのが生き生きと甦っていて、ひげ根っこを伸ばし芽も地上に伸びるところ。じゃが芋は随分昔にもプランターで芋掘りした記憶があるので、これは冬くらいには掘れるかもしれません。しぼしぼだった1個のジャガいもがさていくつに増えるのか楽しみ。生産てやつですね。
 しかしこう涼しく部屋の中も薄暗いと、壁にかけた麦わら帽子が妙に淋しく見えます。ペらんとしたイ草の敷物も素っ気無い。まあまだ多少は暑さも戻るのでしょうが、一度こうして思ってしまうと、もうどんどんと気持ちも秋仕様に傾くわけで、その一番乗りみたいな日は何を着て出かけたらいいのか悩んだまま、さっきから変な格好。




9/15 たとえば豚汁とか

 しっとりとおとなしい朝。カーテンも控えめに孕んでは揺れて、必要なだけの涼しさを部屋に送っている。
早朝に腹痛で目が覚めて、すぐに口に入れられるものがないので、仕方なくヨロヨロとコンソメと乾燥わかめともやしでスープを作り飲んで、薬を飲んで二度寝。おかげで二度目の寝起きはぼんやりスタート。涼しくなったらなったで、暑いうちにやり残した事があるような気がしたりする。夜中に電話してきた友達に、もうすこしなにか言ってあげれたんじゃないかとか。ね。人は自分とは同じ問題を抱えているようでも、その尺度はやっぱりそれぞれに違って、「わかるよ」とわかったことは、自分の尺度でわかったこと。だからそんなこと言ってみたって本当の本当はわからないけど、モリモリに具が入った味噌汁をつくってあげるから、いっしょにふうふうすすろうよ って感じのことを、なんか一発うまい言葉で言えたらいいなあって思うのだ。
よし、言葉は作れないけど、だれが来ても好いように豚汁でも作っておこう。って違うか。だいたいこういうことを書きながら自分が完全に豚汁の口になっちゃってるとこが間違ってる。ああでもいつでも豚汁であなたをぎゅっとしてあげたいと思ってるから。やっぱり妙なイメージになっちゃってるけど。まあ豚汁に掴まれたい人(もはや意味が変わってる?)は、いつでもどうぞ。



9/14 ピカリ電球光りました

 鳥がしきりになにかを喋っている。涼しい朝。ちょっとだけいいことを思いついた気がして、紙にメモする。大事なのはメモした内容じゃなくて、「あ、いいかも」と思いついたこと。頭にひらめきマークが出れば出るほど愉快が生まれてそれが次のステップへ押し出してくれる。
でも出かける間際に思いつくから、後ろ髪ひかれるんだよな。


9/12 やじろべえ

 晴れ。めだかを眺めながらしばしボーっとする。卵は食べられてしまったのか見つからない。めだかの数も、もらった数より減っている。気づいた時には影も形もなく消えている。そんなことは他愛のないことだと言わんばかりに甕の中はもう静かで、以前よりもバランスがとられているようだ。冷蔵庫のプリンが無くなったとか、そんなことで喧嘩するのも可愛いもんだと思うけれど。
 もてあましていた頭痛眼痛は、半身浴しながら文庫を一冊読みきって、たっぷり寝たらすこしよくなった。それでもモニターを眺めているとずーんと圧迫される感じがくるので、もうちょっとパソコンは控えたいかな。今日は出張レッスン。早めに出てすこし外を歩こう。明日からもしばらくアナログ作業。長かった無力感は今ようやく、手を伸ばして、自分の周りに何があるのか何があったのか触りながら確認してるような感じ。ああこれがあったんだ、そうかそうか。っていう。やたらわけわかんないとか、やたら哀しいとか、は過ぎたみたい。でもちゃんと一回泣いたりなにかを出したりしないといけない気がするな。だからぽーんと山とか森に行きたいんだと思う。バランスとって、もっと大きいふり幅で揺れられるように。





9/11 糸電話とトリ

 気温があがってきた。なあやさんが先日の朗読会でも読まれた詩をマーガレットプレスのWEBにUPされている。朗読会ではたくさんの詩を読まれて、素敵な詩がたくさんあったけど、この"ある日"の詩は、読み始めてすぐに、ああ今日私はこれを持って(心にとどめて)帰るだろう、と思った。なぜかとかじゃなくて、これだと。きっと、聴いている人が耳に残る言葉や持ち帰る言葉はそれぞれに全く違って、たぶん日によって引っかかるところも違って、だからこそ与えられることで発見する自分のそんなことも確かめに、また聴きにいこうと思うのかもしれない。足を伸ばしてごろごろしながら聴ける朗読はいいね。体が楽だと素直に受け取れる気がするし。詩はWEBにUPされて嬉しいけれど、やっぱり声から伝わってくる印象とは違う気がするから(私的にですが)、もし近くに誰かが居たら、まずゆっくりと読んでもらって耳から聴いてみてほしいな。
 私は普段から仕事も他のことにもあまり先の見通しがたたないってのもあるけど、どっちかというと"今"とか"今日"を単独で見ていることが多い。なるべくならそこに(その時間に)価値を見出そうとするふしがある。それが今すぐ大きく変わることはそれほど無いと思う。でも今日って日のために、必ずいつかのある日があったんだってこと。今日がある日の為の"ある日"になるんだなあってことが、当たり前だけど改めて過去から手渡された(又は未来へ手渡していく)みたいでちょっといいじゃん。それがずっとずっと輪っかみたいに繋がってるんだよなあって。日付順じゃないから、ランダムに。何処の日がいつに繋がってるかわかんないから、忘れてたような日から何かが届くのかもしれない。
 だからといって、「今日って一日を大切に充実させて」みたいな気になるかっていったら変わらないし、なあやさんの詩もそういうことを言ってるわけではなくて、この詩を聴いたからとかそういうんでもないかもしれないけど、ただ、こうして毎日なんでも記しておくのが私のやることなのかもって思ったんだよね。もちろんこんな雑記よりも周りの人達がやっているように作品らしくもっと進化させた形の方がいいと思うし、人に観てもらうにはきっとそうするべきなんだけど、でもこれが一番自分がしたいことに近いことやってるのかもって思う。うまく言えないけど、活字にするって意味じゃあなくて。なるべく素にちかいところから出てくるものっていうか。
 どうも最近はずっとモヤモヤの中にいて問答のような日記が多いけれど、ときどき詩のようだったり、音のようだったり、絵のようだったり、そんなふうに書いて(暮らして)いればいいじゃないって 思ったんだよね。あとはきっと"ある日"に形をかえて自然と生まれるだろうと。


ある日の残骸。今日のタイトルはこの中から拾ってみた。
ノートは一番気持ちよさそうな場所から書いてしまうので、書式というものがありません。しかも横書きのくせに右ページの真ん中辺りから書きたい願望が強いみたい。思いついたときに書きたいところに書かないと、書きたいことを忘れてしまうんだなー。一応矢印で誘導つき。


ある日もつもれば山となる。ネタ探し中。


9/10 たまちがい

大きくてよくエサを食べてたメダカが卵を産んだ。今日は粒々をいっぱいお腹に抱えている。おとついくらいに初めて卵を発見した時は、まあるく透明なのを1つだけお腹につけて泳いでいて、ややもしかしてこれは!卵か!? 玉が産まれる予感てこういうことだったのかー?おまえだったのか?とジャストタイムなだけに思ったのだ。うう。玉は私から出る予定だったんだけどなあ。違ったんかな。まあひとまず様子をみて、メダカから卵が離れたら隔離する。
 ここのところモニターを少し見続けているだけで、目のまわりや頭が痛くなってくる。涼しくなって寝やすくなったはずなのに、体の力をうまく抜けなくて寝つきが悪かったり。まあ、普段ものの3分もかからずに寝ているので、それが10分とかになっただけなんだろうけれど、こういうのが季節の変わり目なんだな。見ている景色だけじゃなくてね。



9/10 日々は淡々と変化

 日が射してきた。まだ風は涼しい。鍋一杯にクラムチャウダーを作って、ふはふはしながら食べて、汗じっとり。温まりたいのか涼みたいのか。人間の欲ってのは勝手なものだ。
 昨日は、それほどの嵐でもないし レディースディだし、と夕方から映画館へ。予告編を何度も観てはリストの「ため息」のところで毎回うるうるしてた『トイレット』。とにかくピアノの音色にもともと弱いので、変な緊張をもって挑む。加えて両側をがっちり人に囲まれてるっていう状況も余計な圧力である。席は指定だというし。最近の映画館はみんなそうなのか?大きいところだからかなあ。照明が落ちてから本編が始まるまでのあの長い(長く感じる)予告編の数々とか音響の広告とかの時間が耐え難く落ち着かないのである。私同様おひとりさまらしい隣の女が、自分のお腹と同じくらい大きなバケツに入った山盛りポプコーンをボリボリボリボリ食べているを、ちっ と思いながらやり過ごした。笑 
 本編は、もう1回観たいな。わかったところでもう1回観たい。ストーリーはもちろんだけど、音楽にもいちいちたぶん人より余計に反応してしまって、大げさに高ぶっちゃって極まっちゃって、じんじん困りながら観終えた。コンクールの場面なんてもうどうしようかと。これから観る人が多いと思うので、ほかの感想は控えるけれど、帰ってきて懐かしいベートヴェンのソナタ集を引っ張り出したのは私だけではあるまい。リストは、それこそ弾いてみたいけれど、辛抱きくだろうか。半年、一年がかり?いや今の状況だともっとだろうな。楽譜を買うだけ買ってみようと思うけど。
さあこれからレッスン。夜はタンバリンギャラリーでbiweekly poet


9/8 台風クッパ

  雨が時間の気配を消していたから、すこし寝坊した。ときどき小さく鳴る雷がまだまだこんなの序章だよと言ってるみたい。雨は少し強くなってきたけどまだ風はない。垂れ下がった簾が、今か今かとタクトがふられるのを待ってる。暴れだす前に巻いてしまわないと。
肩を雨にうたせて力を抜いて今日は温かいものが食べたいかな。語呂的にもクッパとか。





9/7 ねじねじ 玉の予感

 パーンと干した洗濯物の色味が揃ったときってちょっと嬉しい。今日もこもってデスクワーク。外は曇っていてすこし涼しい。カーテンが揺れるわりには部屋にあまり風が流れてこないので、パソコンの熱気と相まってやっぱり蒸し暑いのだけれども。
すっかり枯らして、このあいだパツンパツンとカットしたレモンバーム、面倒くさいから根っこはあとで土ごと処分しようとそのまま放っておいたら、根元からまた葉っぱが出ていた。おお。もう水遣りをサボらないようにしないとね。雨はどのあたりだろうか。待ってるよわたしも。
 昨日あたりからまたすんごく引越しがしたくなって落ち着かない。なんだろう、こういうのって。用事がないと人からの連絡なんてものも来ないから(自分もしないけど)、あたしって別にここに居なくてもいいんだなあと本気で思っちゃうんだよね。この辺もこの部屋もひとり遊びもわりかし好きだけど。さびしい奴と自分で認めるのが嫌(というかそう思うこと自体を避けたいと思ってしまう)から、そんなら完璧にひとりになろうって極端に思う傾向があるんだろうなあ。さびしいやつだ。楽しいことだってすきなのに。まあ、今 ねじねじ っとしてんのね。
でもなんとなくもうすぐなにかいい玉がポロっと出てくる気がする。いい玉って何だ?って感じだけど、想像するにキラっとしてわくわくっとするような、なんかそういう玉だよ。ポロっと生み出すのか、ポロっと転がってきたのを拾うのか、わかんないけどー。もし待てども待てども玉が出なかったら、まじで違う世界に身を寄せそうだ。弱りきる前に玉よー(玉じゃなくてもーなんか)出てくれ。

さて。仕事に戻りますか。



9/6 カーテンの波間 夕方の虹

 日に焼けた肌はさらに紫外線吸収率がよくなったようで、知らず知らず色が濃くなってる気がする今日この頃。頼まれているWEBサイトの制作に取り掛かったら、時間にメリハリってものが無くなりました。永遠にやってしまうのね。パソコン作業て。気をつけて体を動かさないといけません。
 昨日は午後だいぶ過ぎてから図書館へ行き、帰り道がてら園芸店を覗く。ここで買うのは鉢植えではなくて、近くの農家が置いている野菜。この辺りは地の物を売っているところが少ないので、横を通る時はいつも覗いてくる。時間が遅かったから元気の無い野菜がすこしあるばかりで肩透かし。冷蔵庫の中になにか野菜はあったかなあと ぼうっと立ち尽くす横で、園芸店のおじさんが「あちくてもう溶けちゃうよ。人間だってとけちゃうさー。」とぶつぶつ。そしてホースから勢いよく噴水みたいに水を舞い上げて水撒きを始めた。風に流れる霧雨の中にうっすらと虹。ふいにカーテンの波間に入り込んだような、心もとなさ。
ああもう夕方だ、早くうちに帰らなくちゃっと思ったのだ。



9/5 日曜の夢から覚めて



  時計の秒針、一定の間隔で足先を触りにくる扇風機の風。なにかここから変わりたい、変えなくちゃと思いつつも、ほんとうは、変わらないで欲しいことの多さにも気づいている。 





いつだってなにかしらどこかしら矛盾してるわさ。





9/4 低刺激で温存中



 深夜のこと。むむ?っと思っているうちに腹痛と吐き気とめまいが一気にやってきて、トイレで涙ちょぎれる。食べ物か冷えなのか。初めてのことではないので、なんとなくまあ体がなにか嫌なものを外に出す行為なのだろう、とわかってきてからは、ことを終えてしまえば案外すっきりなもの。白湯を飲みながら一日を思い返し、思い当たる節や日頃の不摂生を反省するのであります。なるほどちょっと振り返るそういうシグナルなのかもしれません。
 たぶん食あたりほどひどくないので、何が原因かははっきりわかりませんが、胃腸を刺激するモノを食べた記憶もないし(30越えたあたりから生タマネギの多量摂取がダメになりました)、夏の間に知らず知らず蓄積された冷えがここにきて出た?と思うことにしてみます。冷たいお茶を飲んでいたのと、ピラピラスカスカの服だったのはいつもと同じですが、もう季節の方が、同じようで同じでもないのでしょうね。それに気づけよと。
 というわけで今日はハイソックスをはいて作業です。靴下を履いていた方が、温まっている部分と冷えている部分の感覚がわかります。私の場合冷えているのは、足先よりも足首から上。特にひざとふくらはぎのよう。ふむふむ。では今日は胃にやさしいご飯にして、古くなったTシャツでレッグウォーマーを作ろう。長袖の部分を切るだけって話ですけどね。そろそろ暑さに耐えてまだ耐えている体に疲れが出る頃、みなさまもご自愛のほどを。



9/3 てのひらから草原

 防音室のドアを閉めにくそうに 「いいもの持ってきたよ」と手のひらをグーにしたまま入ってきたのはHちゃん。突き出された手を前に、(ぎょ、まさか虫でも飛び出してくるんじゃ...;)と咄嗟に身構えたのは、Hちゃんが虫かご持参レッスンの常連さんであるから、虫に違いないと思ったのだ。でもひらかれた手のひらから出てきたのは、ふわり大きめの綿毛ひとつ。「ほおらータンポポの綿毛だよー」とレッスン室に舞い上げた。よく乾いた綿毛は、エアコンの風にのって ゆっくり ふーわ ふーわ。
サイズと時期的にも、タンポポでは無いだろうねと思いながら、「ピアノの中に入っちゃって芽ー出ちゃうと困るからーつかまえといてねー」と言ったら「草いっぱい生えちゃうかもー?」と爆笑しながら言うので、「いやそれはむしろ歓迎だけど...」とごにょごにょっと言葉を濁していたら、さっさと捕まえて壁にあいた穴につめていた。こら。 でも霧吹きで水をあげてたら(レッスン室の壁は防音仕様で、中がスポンジっぽい)、ひょっとしてうまいこと芽が出るかも!?とちょっと真面目に考えていたんだけどね。
 そんなことを今朝思いかえしていたら「ああ、あの綿毛はアザミの綿毛だ」と思い出した。アザミの根っこも乾いた風が吹く頃には良いヤマゴボウに育ってるんだろうなあ。いっぺん掘ってみてみたい。なぜならヤマゴボウの漬物が大好きだからさ。今度またアザミの綿毛を連れてきたら、根っこの話にシフトしてみようか。
 そんなこんなで、家からひとりで歩いてレッスンに来るようになったHちゃんは、5分ほどの道のり、道端のあれこれに目をうばわれてなかなか教室に辿り着かないようである。待つ身としては、「来ない...来ない...」と多少心配なわけだけど、でもその時間が楽しいことはすごくわかる。自分も習い事にはしばしば辿り着かないことがあったし、学校へ行くことの大半の楽しみは、小中高大学と通学路だったと言っても過言ではない。山、畑、田んぼ、沢、川。あんなに自由に気ままに歩けた時間て、働くようになってからは本当に少ないなあ。『通う』ってことを、もういっぺんしたくなった。



9/2 ほんとにちょっと手を入れるだけのことなのだ

 少し前にホームセンターに行った時、もう伸びきって花ガラがたくさんついて、70%オフ売れなきゃもうすぐ捨てられる...みたいな鉢植えを買ってきて、切り戻しをして植え替えておいた花が、ここのところ毎日よく咲いて、花無しだったベランダのまさしく華になってる。60円くらいだったと思うから、あと1鉢くらい買って世話をしてあげればよかったなあ。シーズン変わりで、ホームセンターにはそんな花や木がたくさん。両親もそんな鉢をよく買ってきて手入れをしては、ボウボウになるくらい立派に育ててる。うちのベランダも、もうすこし広かったらなあ。すこし残っているスペースはこれからの野菜のスペース。あとすこし涼しくなったら種まきしよう。


ようく見ると、ビロードっぽい質感。名前はなんだったか、すっかり忘れてしまったよ。

やっぱりもうひと鉢だけ買ってきて再生させようかなあ。まだあるかなあ。



9/1 ガジュマルの葉の上で空見

 晴れときどき薄曇り。洗濯物を干そうとベランダを開けたら、目の前にクモの巣。簾とユーカリの枝へわたった綺麗な楕円。ガジュマルの葉の上では2ミリほどの小さな蟻が半分頭をあげたような格好でじっとしている。考えごと?みんな9月になったってことに気がついているのか。9月といっても私は学校が始まるわけじゃないから、早起きしなくていいし、いつもと別に変わったことをしなくていいから、やっぱり大して変わらないんだけど、すこし落ち着いてベランダにしても何にしても見つめていると同じ朝のようで毎日ちゃんとなにかが違ってて、そういうのを見つけては、ああそうなんだやっぱり昨日とは違うんだと 教えてもらってる。
 でも悪いけどクモの巣は邪魔だからね、と糸をはらって洗濯物をつるす。わたしには夜通しかけて作った作品を出来た瞬間に壊すような人が居なくてよかった。


ガジュマル先生(精霊キムジナー)なんだか顔が変わったみたい。
取り巻きにすごみが出てきたような。一年前の顔はここ9/3の記事で。


 昨日は、電車に乗りながら、ふと急に、うまく朽ちることについて考えた。20代の頃よりもおとといよりもきのうよりも今日の方が、たぶんうまく朽ちていける気がするって思ったのだ。死んでいく、とかっていうイメージとはちょっと違うんだけど、哀しい意味ではなくてね、なんというか、気持ち的にも物質的(着ているものとか)にも、なんかうまく土に還りやすくなったんじゃないかなあってこと。それはむしろ私の場合嬉しい発見だった。うまく言い表わせないけれど、より自分が自然の物質に近くなったというか、森の植物や生き物が朽ちてまた土に戻って、また生まれるっていうサイクル?そういう浄化みたいなしくみの一部に、生き物として自分もうまいことなれそうだなあってね。固執してるところとか、異質さみたいなところが、ずいぶん少なくなったように思えて。もちろんそれも良し悪しあるけれど。
で、これから会いに行く友たちも、そうとう土に還りやすいなあと、次々に勝手に森に転がる図を想像してみたら、なるほどみんなうまく馴染むのでまた嬉しくなるのでありました。まあ、私にはまだまだドロドロした感情とか欲とかふんだんにあるけれど、それもにんげんてことだ。
 しかし何故こんなことを唐突に?と思ったら、たぶん、ラフィアの帽子をかぶって南天の実の首飾りをして、藤の蔓のかごを持っていたからなんじゃ?とあとから気がついた。でも"うまく朽ちれる"と思えた瞬間、なんだかほっとしたのだ。

 

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